泥水りんごジュース

なんでちゃんと飲んでくれないの

田中愛子を許さない

おやすみプンプン』という、今でも度々話題に上がる、サブカルチャーの王道みたいな漫画がある。

父親の部屋に入っては週刊少年誌を読んでいた小学生の私。ジャンプ、マガジンと共に積まれていたビッグコミックスピリッツ。年齢層が少し高めなスピリッツを手に取り、私は『このSを、見よ!』とか『セルフ』とか『花と奥たん』とか、ちょっとエッチな漫画を選り好んで読んでいた。やっぱりジャンプやマガジンなんかより大胆にエロくて、乳首とか描かれてて、ドキドキした。

絵が綺麗で可愛くて気持ち悪くない漫画しか興味のない私は他の作品を読み飛ばす。

早々とめくられるページの間からチラチラと見える奇妙な鳩サブレ少年、プンプンの印象は強烈だった。

途中から読んでもわからなかったから読むのは止めてしまったし、そもそも当時の私は作品を理解し得なかっただろうけど、プンプンという存在だけはよく目に入っていて。

 

そして同時に、眉毛の濃い、女も、よく見かけた。

 

歯の抜けた、貧相な裸、困り眉の、太っとい眉毛の、そばかすの、地味顔の、幸の薄そうな、お世辞にも可愛いとは言えない、いや、可愛い、モデル顔じゃないだけで、可愛い、クラスの中じゃ可愛い、そのサークルの中じゃ可愛い、中の上、上の下、田中愛子。

田中愛子。

私が田中愛子という名前を知ったのは17歳くらい。たぶん、まとめサイトかなんかで偶然知ったんだと思う。

そのときはなんとも思わなかったんだけど、

その17歳から、また数年間。

男に抱かれた。男と付き合った。男と別れた。男に抱かれた。男と付き合った。

 

私は田中愛子が嫌いだ。

 

プンプンは田中愛子に呪われた。

田中愛子はプンプンの初恋を奪い、唇を奪い、目の前に現れなくとも、思い出で、匂いで、言葉で感触で、プンプンの中に存在し続け、何年にも渡りプンプンを苛み、遅効性の毒のようにジクジクと体内でその存在を増していく。

おやすみプンプン』のなか、何ページにも渡って田中愛子はそこにいた。それほどに田中愛子はプンプンの中で何回も何回も回想される存在だということだ。

プンプンはおねえさんに襲われたから、または思春期の性欲のせいで、もしくは田中愛子を断ち切るために、さらには“なあなあ”で。とにかく、とにかくたくさんの建前を重ね、田中愛子とは違う女で童貞を卒業した。

そして、そのせいで田中愛子の存在はより一層輪郭を濃くし、プンプンの中で神格化される。

プンプンは馬鹿な男だ。

自意識と田中愛子の間で息苦しそうに、いつまでもプンプンは田中愛子のことを思い出したり、忘れようとしたり、思い出したり、忘れようとしたり、でも無理なので、思い出したりする。

 

田中愛子はよくわからない女だ。

恋心がなにかも分からぬ小学生のプンプンは、言葉を紡いで必死に胸の内を伝える。

「僕は、」

「みんなをメツボーから救えないかもしれないけれど、」

「でも何があっても」

「愛子ちゃんだけは守ってあげたいと思う。」

「愛子ちゃんが好きだから。」

すると田中愛子は笑い、

プンプンのファーストキスを奪う。

「…エッチ!」

そう言って、どこかへ走った。

 

また別の日も、田中愛子は言う。

「プンプンはあたしのことすき?」

「じゃあ、あたしもプンプンがすき!」

 

“エッチ?”

“じゃあ、あたしも?”

 

その謎こそが甘美。

謎を解き明かそうとすればするほど嵌って行く。

きっとそこまで深く考えず行動したであろう田中愛子を遥か追い越し、その行動原理を延々と考える。答えなんか見つかるわけないのに。

考え続けていくうち、それは固執になる。

田中愛子はプンプンの価値観とか、倫理観とか、恋愛観とか、性癖とかを形作った。

田中愛子と出会ってしまってから、プンプンはその前になんとなくで好いていたブスのクラスメイトの顔すら思い出せなくなってしまった。

つらいとき、「…愛子ちゃんは僕を痛くないように殺してくれるだろうか…?」と、自身の死すらも田中愛子ありきでプンプンは考えるようになってしまった。

田中愛子から決別するために人生をかけて奔走しながら、最後には田中愛子との思い出の場所に行く、けして田中愛子と決別なんかしてないプンプン。

田中愛子がイケイケの先輩と手を繋ぐ姿を目撃して、「地獄!」と思うプンプン。

いつまでも田中愛子とのチャンスや偶然や必然を狙っている滑稽なプンプン。

田中愛子を、運命の人と信じ続けるプンプン。

愛子ちゃんを探して、愛子ちゃんは見つからなくて、愛子ちゃんはいなくて、プンプンが探してる愛子ちゃんはもう今はいなくて、だって愛子ちゃんも歳を重ねて、あの頃の愛子ちゃんとは違くて、てかプンプンも歳を重ねて、もう今は好きじゃないはずなのに、好みとかも変わってるし、でも会ったら愛子ちゃんはやっぱり愛子ちゃんで、あの頃の愛子ちゃんの面影があって、むしろ魅力が上乗せされているような気が、僕達、また、もう一度、これから、そして、いつまでも、いつまでも、愛子ちゃん、愛子ちゃん、愛子ちゃん!

 

 

「田中愛子への執念に似た思い」

『おやすみプンプン』におけるプンプンと田中愛子と南条幸の関係[ネタバレ含] - 今日もご無事で。

 

 

初めておやすみプンプンを読んだ時、なんとなく、私もこんな恋をしたいと思った。

普遍的な幸せとは少し違った、ノスタルジーと喪失感に浸るような、擦れた、捻くれた恋。人生に行き詰ったら、互いを殺し互いに殺される。そんなハッピーエンドを描いていた。一種の中二病だったかもしれない。

でも、私に纏わりついていた青臭い熱もそろそろ冷めてくる頃だ。

 

プンプン。

それは執念なんだよ。

 

誰にも呪いは解けなかった。

いや、解かないまま、田中愛子はプンプンから去った。わざと。きっと。

狡い女。小汚い女。最悪の女。

彼の元を去る直前まで、田中愛子はプンプンに呪いをかけ続けた。自分の存在をプンプンの中に刷り込むかのように。

プンプンが一生、自分のことを忘れないように。

 

でも、そんなプンプンが好きなんだ。

そういう人が好きなんでしょ?

田中愛子のことを好きじゃないプンプンなんかプンプンじゃない。

心にたった一人の女の存在が棘のように刺さっている姿に、劣情し、唆られる。

そんなん嫌だけど、嫌なのに、そんなんが好きなんだ、私は。

私なんかには興味ないのかな、と疑う瞬間の胸の締め付けが、心地好い。

なんて、自己防衛、正当化。

ごめんね、気持ち悪いね。忘れて、今の言葉忘れて、田中愛子も忘れて。お願い。ね、プンプン

 

そのうち私は自分が田中愛子ではないことに気づく。

それでも私はプンプンと生きていく。

ヒロインには足らないかもしれないけど、少し出会うのが遅かったかもしれないけど、すべて手遅れかもしれないけど。

田中愛子より長い時間をプンプンと生きていくのだ。

プンプン、だからさ、もういいじゃん。

もういいじゃんって、私か。私がか。

 

眠るのは簡単だ。

途切れていく意識に身を任せ、怠くなった身体から解放される快感。幸せな夢を見て、一生覚めなければ良い。

それを叩き起こすのは難しい。

何回「起きてよ」と言っても、上体が起こされても、目線も意識もうわの空で、半分眠っているのだ。

おやすみしないで。

おやすみしちゃダメだよ。

おやすみさせない。

損な役だ。

 

起きて、プンプン。

起きてずっと起きて、夢の内容が、あの子の顔が声が匂いがぼやけはじめて、日常が溶かして、いつしか思い出せなくなりますように。

 

私は、田中愛子を許さない。