泥水りんごジュース

なんでちゃんと飲んでくれないの

とある先輩

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人より記憶力が良いということ。

 

記憶力が良いゆえに、私の中には身の毛もよだつほどの嫌な思い出がミチミチに詰まっている。

それは幼稚園のおゆうぎでルールを間違えてしまい先生から怒られたことに始まり、小学校の時にしりとりで負けたくなくて「ロシックゴリータ」という造語を作りズル勝ちしたこと、友達を解消されたくなければ命令に従えと言われ砂を食べたこと、好きだった先生が学年集会で椅子を蹴飛ばし出ていったから物に当たるのは良くないと注意したら私の正義感と教師のプライドによる言い争いが始まり結局言い負かされて大泣きしたこと、中学でいじめられて性格が歪んだこと、うちの家族はヤバいと感づき始めたこと、上京したての頃に西武新宿駅新興宗教の勧誘に捕まったこと、バイトをするたびに変な客に絡まれ辞めるハメになること、抱かれた男が知り合いの彼氏だったこと、元カレにそれなりの金貸してたこと、あと色々、言いたくないので、エトセトラエトセトラ。

とかく嫌な記憶がひとつも成仏してくれなくて、それらをあぷあぷと抱えた私は、ぽろりとハミ出した一つが勝手に脳内上映されるたび万年床に挟まれながらアア、ウウ、と呻き声をあげるのだ。

 

そんな私の中に住む、とある先輩の話。

 

高一の春、新入生勧誘のための文化部発表会で、ホール最前列のど真ん中という良席に当たったことが私の人生を大きく変えた。演劇部の紹介が始まり緞帳が上がった時、舞台のど真ん中に倒れていた男性こそがその先輩だ。

エネルギッシュな演技と大量の唾を勢いよく浴びせられ圧倒された私はぬるりと演劇部に入った。

掴んだ情報によれば、先輩は三年生で、その年の四月で引退で、副部長で、ラーメンズが好きで小林賢太郎戯曲集を部室に置いていて、SNS上に本名は載せない主義、LINEも本名とは全く関係の無いアルファベット一文字で名前を登録していて、ツイッターでは「あなかしこあなかしこ本名で呼ぶな。」とbioに書いていた。

昔いじめられていて、たまに病み期に入って、人を悪く言う人達が苦手で、友達ができにくくて、学食を一人ぼっちで同じ席で食べていて、哲学について考えると止まらなくて、童貞で、文化部発表会の役作りしろって言われても恋愛がよくわからなくて、中学でいじめられてた時に庇ってくれた恩人の女の子を思い出して、もしかしたら好きなんじゃないかって思ってわざわざ会って舞台のストーリーと同じように告白したけど振られたらしくて、てかその女の子と同じ公立高校に入ろうとしたけど自分だけ落ちて、滑り止めがこの私立高校だったらしくて、アア、ウウ、

 

私は先輩を好きになった。付き合いたいとか恋愛的なのじゃなくて、とにかくなんだかとても魅力的だなと思っていて、毎日毎日、目が離せなかった。

先輩と私は限りなく似ていて、お互いに似てるなあと認めあった事だってあったし、だから先輩がその恩人の女の子を好きになるなら、私だって恩人の先輩をとうぜん大好きになるのだ。先輩みたいに、恋愛じゃないにしろ。

 

そう、先輩はこのあと私の恩人になる。

先輩と私が限りなく似ているとはいえ、最寄り駅も同じだと知った時は正直運命なんじゃないかと勘違いさえした。

先輩が部活に顔を出した日の帰りは、一緒の駅で電車を降りて、ホームの階段を上り始めたところから二人きりの短い会話を交わして、改札を抜けて先輩は治安の良い東口、私は治安の悪い西口と別々の出口から帰路に着くのだった。

五月、部活終わりの帰り道、ホームの階段を上り終えたところで先輩が切り出した「最近、つらそうやな」に対して、私は呼吸を待たず「死にたいんです」と返した。

身勝手に先輩を信じていた。同時に、このまま先輩と気まずくなって今後一切口を聞けなくなっても仕方ないとも思っていた。そんな覚悟を溶かすように、先輩は優しく相槌を打ってくれた。私の弱音で続く平行線のやりとりは改札を抜けてからも何十分と続き、立ち話で足が棒になりかけた先輩と私は、西口を出た先のバスロータリーにあるベンチを話場に選んだ。

そのベンチに私と先輩が座ったのは、二回。

その二回のベンチが私の青春だった。

 

「人間の記憶の内訳って、統計とったら平均的に良い思い出が6割、どうでもいい思い出が3割、嫌な思い出が1割になるらしいねん。これは中学演劇の『思い出の6:3:1』って脚本でぼくは知ってんけどな。」

「僕らが去年の新歓でやってん。高校生なんてアホやねんから新入生歓迎会の脚本は中学生レベルが一番ええって部長が言うて、実際ほんまにウケてんやんか。今年は引退やからって高校演劇ド真ん中な抽象劇やったけど」

「でな、今の  は嫌な思い出10のうちいくつある?」

「せやんなあ。でも嫌な思い出って減らされへんし忘れられへんやんか。よく気にすんな〜とか、忘れや〜とか言われるけど、そんなん絶対無理やん。やからこれからの人生でいっぱい楽しいことやって、どうでもええことやってさ。思い出の母数を増やして、嫌なことを1に追いやればええんよ。」

「ぼくとこうやってダラダラ話す時間もさ、積み重なれば嫌な思い出を追いやれる量になったりせえへんかな〜」

 

「てか、前から思っててんけどさあ」
「  さあ、笑うの苦手やろ。笑うとき絶対手で顔隠してるもん。」

 

そういえば当時の私は、中学の頃から毎日欠かさずマスクをつけていて。

「顔面凶器」とかいう最悪の言葉が流行る終わりの街・大阪の南部にて、一年近くひどい言葉の数々に耐えてきた私は「目ェ腐るから視界に入らんといてくれや」という言葉にぽきっと折れてしまい、その日から前髪を伸ばし、マスクをつけて、できる限り自分の顔が見えないようにした。

なんじゃそりゃ、これでええんやろ、これでアンタの目は守られんねやろ? と強気なフリをした私は、その方向に努力すればするほどそいつらの思惑通りのオモチャに近づくという悪循環を理解した上で、そうするほかなかった。

たった三年間でも、日常的に、周りから浴びせられた罵声や悪口は、真実だろうとそうじゃなくとも価値観に深く深く根付いて、いまでも私を苛んでいる。

中学を卒業しても、マスクは強力な呪いで私の顔に貼り付いていた。

誰でもいいから呪いを解いてくれよ、と、姿も名前も分からない存在に縋り願うしかない虚しい日々自体も、また呪いを強めていくのだった。

 

「ほんでいつもマスクしてたんや。汗だくやのに外さんから、暑そうやな〜と思っててん。そうか、そんなん言われたら怖くなるわな。ほんまそんな奴ら死んだらええのになあ。」

「僕な、自分のことを苦しめた奴らだけには死ねって言うてええことにしてるねん。オススメやでこれ。僕を頼ってくれる  が苦しんでると僕も苦しいし、  は優しいからこういうキツいこと思われへんやろうし、やから僕が代わりに死んだらええのになって思っとく。」

「マスク、ぼくの前なら外せたりせん? 外せへんなら無理せんでええから」

 

「顔、全然どこも変なことないのになあ。  は隠さんでええ顔やのに」

「また手で隠した!」

「そいつらよりぼくの言葉が  の心に届くようになればええのにな〜」

「そしたらなあ、まずはマスク外して学校行けるようになることが  の成長の第一歩やな。」

「ぼくも  がそうなったらうれしい」

 

先輩は呪いの解き方を知っていた。

次の日の朝、いつものように手渡されたマスクを受け取らず、数年ぶりに素顔で家を出る私を見てお母さんは泣いた。

 

「  との関係性がぼくは好きでな、  が頼ってくれて、ぼくは頼られることで自信がつくし、  の悩みを通してぼく自身を見つめ直すことにもなる。ずっとこのままでおれたらええなと思うで」

 

そんなことを言う先輩との関係性が続いたのは、4月の終わりから8月くらいまでだったから、半年もない。

だから先輩との思い出はほとんどが暖かくて蒸し暑い。

関係が閉じてしまった理由は大きく三つ。先輩が受験生だったこと、受験生の時間を割いていることに責任感を感じ私から距離を取り始めたこと、そのうち私が7割の嫌な思い出にとうとう押しつぶされて精神をおかしくしたこと。

 

冬の日、精神安定剤の強力な睡眠導入効果でいつものように遅刻してしまった私は、周りより何時間もかけてゆっくりと家を出て、既に門が閉められてしまった通学路を横目に迂回路をひとりで歩いて学校に向かった。通学路は山道で、路面凍結したらバイクも滑って走れないくらいの急斜面。ただでさえ身体が鈍っている私は必死でその坂を一歩ずつ登る。

うちの高校はそれなりの進学校で、高二の時点でほぼ全ての授業を終わらせ卒業に必要な単位を取らせる。高三からは自分の受験勉強のために必要と感じる授業のみに出席すればよく、塾に通わずとも高校からのサポートや本人の努力次第で大学に合格出来る、というのが売りだった。

「  」

だから三年生と登校時間が被る時がたまにあったし、だから六限前に下校する先輩と私は出くわしてしまった。

薬とストレスでボサボサになった髪もむくみきった顔も、坂を登って汗だくの姿も見られたくはなかったけど、一瞬だけ顔を上げて目を合わせた。「先輩お久しぶりです」

「  、ぼく大学受かった」

「おめでとうございます」。交わせた会話はそれだけだった。

先輩の足音が聞こえなくなるまで、ずっとその坂に足を食い込ませて、ヨタヨタと坂を下って家に帰って、薬をたくさん飲んで泣いた。先輩と会えなくなること、先輩が遠くにいくこと、もうお話できないこと、励ましてもらえなくなること。そもそも先輩とは数ヶ月のうちのほんの数十日しか会ってないくせに、それが当時の私にとって最も辛いことだった。

私は先輩の言葉で毎日を耐えて生きていたから。

 

先輩と出会ってから数年経った今でも、嫌なことを思い出しては先輩からの言葉を思い出して自分を元気付け、それから先輩自身のことを思い出す。

酷い時には先輩の存在に救いを求めるものだから、今の私を大切に思ってくれる人に「いつまでも過去のひとに惑わされるな」と不快に思われてしまった。

だから私は先輩を『嫌な思い出』にブチ込んだ。

傍から見れば未だに失恋を引きずる女そのものだけど、本当に違くて、付き合いたいもセックスしたいも無かった。失恋に見えちゃうのも仕方ないことかもしれないけど、本当に恋はしてなくて、でも、確かに好きな人と疎遠になったので失恋、違、失、アア、ウウ

 

私のなかには先輩との思い出が氾濫している。

先輩の言葉が私の人生を作った。先輩の言葉を胸に生きてきた。先輩の価値観を信じて過ごしてきた。あの頃の私が死なずにいられたのは先輩のおかげだった。

匂いで昔の人を思い出すように、音楽でそれを聴いていた当時が蘇るように、生活の全てが先輩の思い出と結びつくものだから、私はすぐに先輩との思い出を引き出しから鷲掴みにして取り出してしまう。

表面張力だけで抑え込まれているそれらは僅かな刺激でひとつこぼれ落ちた途端、すべてが溢れ出す。

そんな自分に自己嫌悪が止まらなくて、自己嫌悪、自己嫌悪、自己嫌悪というワードにより引き出された2015年5月18日の思い出、自己嫌悪が止まらなかった私に送ってくれた、先輩からのLINEをご覧ください。

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また泣く。また救われる。また苦しむ。いつまで私はこれをばかみたいに繰り返すのか、いつ終わるのか、自分でも分からなかった。

 

けど、収束はきちんと訪れた。

 

先輩との出会いから四年後、私が出た舞台の客席に先輩はいた。

私扱いの予約だけが入っていて、本番中にもその姿には気づけなかった。

終演後、先輩は手を差し伸べて、私と握手をした。

私の手は汗と緊張でネチネチしていて、先輩と握手なんてしたことあったっけって、そもそも先輩の手が触れた時なんてきっとなくて、恐らくこれは初めての握手だった。

力が抜けてかがみ込んだ私の顔に近づいた先輩の手からは知っている匂いがして、私が今までどこで嗅いだか思い出せなかったのは先輩の匂いだったことが判明した。

先輩の声は少し落ち着いていて、あの時のパワーはどこへやら、サブカルど真ん中な丸メガネをかけていて、あの茶色とねずみ色と黒の地層みたいな服を着てて、いかにもな量産型大学生で、それでもやっぱり先輩だった。

なんだもう、情報が多すぎる!

何も言えず、絵に描いたように口をパクパクとさせるだけの私を目の前に先輩は勝手に話を進めた。

 

「なんやろなあ。いや普通に面白かったで。なんかな、うん。」

「昔を知ってるからさ。」

「すごいな、成長したな。」

 

終わった、と思った。

 

隣の主宰に「彼女、稽古中になにかご迷惑かけてませんでした?」なんて話しかける先輩に私は何もつっこめないまま、先輩は何かしらをまた私に言っていたけど、それを私の脳みそは記憶してくれていない。「頑張ってな」という言葉に「先輩も頑張ってください」と返したことが私の精一杯だった。

先輩はこちらに手を振ってその場を離れアンケートを渡しに行き、また私に手を振り、少し歩いて私に手を振り、受付を過ぎても私に手を振り、階段を昇り姿が見えなくなったところでまたヒョコっと現れて手を振るかと思ったけど、もう先輩は現れなかった。

踏ん張れたのは数分。先輩と話している間にお客さんの数も少なくなったようで、私は舞台裏に逃げ込んで泣いた。

ずっとずっとずっとずっとずっと泣いた。馬鹿みたいに泣いた。先輩が褒めてくれた舞台に経つまでの数ヶ月。先輩と会わなくなってからの四年分の感情。あのとき先輩が相談に乗ってくれていた呪わしき過去の分。十九年分の全てが零れてしまった。全てを救われた。全てが報われた。泣いて泣いて泣いて、涙はずっと止まらなかった。お客さんが全員退出し、客席のパイプ椅子を畳む音に気づいて、やっと泣くのを止めた。

 

「成長したな」

 

終わった。

 

私の役者人生は終わった。

先輩を目の前に、スンナリと幕を閉じた。

第一幕なのか終演なのかは分からない。けど、私がずっとずっと踏ん張って必死に立っていたこの舞台は終わった。

先輩のためだけに演劇をしたわけではないし、先輩のためだけに舞台に立った訳じゃない。道中の目的や目標はそれぞれしっかりとあった。

とりわけ演劇が好きではないというのは昔から言っていた話で、私にとって演劇は一つの『手段』であって、どうも『居場所』ではないなという感じがしていた。周りは演劇に生き、舞台に立ち、舞台を作り、観劇をする。私にとって、それはあくまで人生を楽しむ手段であって人生の軸に置くものでは無かった。

何より演劇に関わっている奴らのクズ加減もアホ加減も、人間としての出来てなさも計画性のなさも、脚本家たちの締切守らなさも、JK食うオッサンも、メンヘラ含有率も、何より演劇に関わっている私自身にも、ウンザリしていた。

それでも演劇をつくることに何年も固執してしまったのは、まあ色々、手軽さとか、演劇に関わる人達のごく小数がどうしようもなく魅力的なこととか、高校演劇部のタブーの多さに逆に燃えたこととか、舞台として成立している舞台に魅せられたこととか。色々あったけど。

それをひっくるめて全てに鍵をかけたのはどうやら先輩で。

演劇への未練は先輩への未練だった。

入部して一ヶ月で初めて書き上げた脚本が採用され役者と演出助手を担い、先輩も「楽しみにしてる」と言ってくれた本番は台風直撃でポシャった。

夏休みを返上して書き上げた脚本を掲げ役者としても出場した地区大会は、先輩から内容に触れられずひたすらピンスポットの使い方のアドバイスしか貰えなかった。

演劇部副部長に任命され、「なんで  が部長じゃないの?」と周りが不満がるなか、先輩と同じ副部長だ、と一人だけ意気込んだ。

分かりやすい笑いに徹した脚本を書き上げ、高校生活最後の役者舞台となった文化部発表会はバカウケして後輩もたくさん入ったけど、先輩だけは見に来なかった。

先輩に観せたかった。認められたかった。

その思いはついぞ叶わず、引退も卒業もしないまま、延長線上に私は立ち続けていた。周りとは違いいつか終わりが来るはずの私の役者欲がいつまでも満たされず、また演劇の入口へとワープし役者人生をループし続ける私のゴールは自分じゃ見つけられなかったけど。

先輩に「成長したな」と言われることが、終わりの見えない役者人生の出口だったらしい。

成長したのは役者としての話だったのかは、果たして分からない。

ただ、大学三年生の先輩の前には、マスクも付けず、笑顔で人前に出られるようになったショートカットの私がいた。

 

私の青春は終わった。

もうどこにもない青春を取り戻すべく足掻き続ける私は、もうどこにもいないあの頃の先輩を必死に探し求めていた。いつかまたあの制服の先輩に会えるのではないかとでも思っていたのかはわからない。

あのベンチで先輩と話すことはもう無いけど、私に根気強く話しかけてくれた、南大阪らしくない柔らかな関西弁は相変わらずそこにあって、標準語混じりの変な関西弁で返した私はやっと気づけた。

あの頃の先輩はもういなくて、あの頃の私ももういないのだ。

先輩と握手をしたときの私はすぐに思い出せなかったけど、過去に先輩の手が私に触れたことはほんの数回だけあった。

あのベンチは西口、私の家に向かう方の出口に設置してあって、もちろん私の中学の同級生の多くも西口を使う。

あのベンチに座った日、先輩に言わせれば『死ねばいい奴ら』が駅前で騒ぎ始めた。大抵ああいう奴らは声がバカみたいに大きいし、悔しいけど私はその声を聞けばすぐ反応できるようになってしまっていた。固まり縮こまる私を見て察した先輩は、座る位置を変えて私を見えない角度に置き、私の頭に手を回しながら半ば抱き寄せるような形で、先輩の陰に私を隠し、奴らが駅前から去るまでずっと励ましてくれた。

私はいつも顔を下げて走って逃げていたけど、先輩は少しでも堂々と『そこにいられる』ことを選んでくれた。先輩がいなければできなかった、人生で初めての奴らへの抵抗だった。

そのあと何回か泣くたびに、先輩の手は少しだけ私の頭に触れた。

いま、もうその手が私を撫でることも守ることもないし、私も先輩もそれを望んではいない。

握手から先を望まなかった私自身が教えてくれた。

いま、私が追い詰められた時にしっかりと抱き締めて守ってくれる人がそばにいる。

先輩だけが人生を歩み進め、私はあのベンチにひとり取り残されたまま先輩を探していたような気になっていた。今の私を見守ってくれる存在にも顔向けができないと、後ろめたい気持ちでいっぱいだった。

なんのことはない、私も成長したからこそ、あの頃の先輩にいくら縋っても救われないから苦しいだけなのだ。空回りだった。

無理やり嫌いな思い出に押し込むこともない。素直に6に入れておこう。

 

ただ、あの頃の私が成仏できていないだけ。

『死ねばいい奴ら』が惨たらしく死ぬか、私の嫌な思い出比率が1になるまであの頃の私は消えないだろうから、アア、ウウと彼女が唸った時には、たまにならあのベンチに座ってもいいと許可してほしい。

けど、それがダメなら、今の私をぎゅっとかたく抱きしめてもらいたい。頭を撫でてほしい。

先輩との思い出を3に追いやる日が来るまで。

 

 

 

 

これは零れた思い出を掬うための分。

文化部発表会の帰り、先輩のことを友達に話したら「すぐそうやって変な人を好きになるよね」と言われたこと。

入部後に同じ劇をもう一度観て泣いた私を慰めてくれたこと。

そのベンチに座った日は、夕方の五時くらいから夜の九時過ぎまで話に付き合ってくれたこと。

マスクを外した日の夜、私から経緯を聞いたお母さんが「先輩のおかげやね」と言ってまた泣いたこと。

私の不安なツイートを見ては深夜にLINEで励ましてくれたこと。

試験の前日に朝の三時まで電話をしたこと。

それでも先輩は難関志望校に合格したこと。

受験生の時間を割いてしまったと必死に自分を責めていた私がその合格で救われたこと。

大学に入った先輩はだんだんとSNSで本名を晒すようになったこと。

過去の人間をいつまでも引きずってんじゃないよと何度も喧嘩になったこと。

何回も先輩を嫌いだと思ったこと。

先輩が好きなこと。

 

忘れられないこと! 忘れたくないこと!

記憶力がいいぶん、忘れることはできずに無理やり追いやったり捏ねくり回すしかなかったらしい。

本当は忘れずに思い出と付き合っていきたいけど、難しい話なのかもしれないから、できればここに置いていきたい。

溢れそうな思い出と感情をここに置いておく。供養。殴り書き。青春の老廃物。私の宿題。